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高橋信次先生に学ぶ

高橋信次先生に学ぶ

「人間釈迦」で知る釈迦の悟りとは ?

「人間釈迦より」釈迦の悟りとは ?


高橋信次先生著「人問釈迦」第一巻より要約

一口の牛乳


(ゴーダマが)カピラを出て以来、六年目の終りが近づこうとしている。

かつてのたくましかった肉体はどこへやら、まだ三十の半ばだというのに、老人のようにすっかり衰弱し、骨と皮のみになって、死を待つ者の姿がそこにあった。

ゆるやかに流れるネランジャラ河は、衰弱した肉体を清め、すすいでくれた。
腰までつかって水面を覗くと、そこに映った自分の顔は、まるで他人みたいであった。
六年前も今も、心には何の変化もないのに、肉体の方は全然別人だった。

しばらく牧草の砂地に腰をおろしていると、女の歌声が風に乗ってきこえてきた。


弦の音は、強く締めれば糸は切れ

弦の音は、弱くては音色が悪い

弦の音は、中ほどに締めて音色がよい

調子合わせて踊ろよ踊れ

みんな輪になり踊ろよ踊れ


朝靄をついて流れてくる若く澄んだ女の美声は、ゴータマの心をゆり動かした。
「弦の音は、中ほどに締めれば音色がよい」

もう一度、歌の文句を心のなかで反復した。
今迄求めてきた謎が、この歌声によって天啓のように氷解するのだった。

ゴータマは腰を上げると、その歌声の方に近づいた。

声の主は、草むらの蔭につないである牛の乳を搾っていた。
乳を搾りながら歌っているのであった。
年の頃は十六、七、身なりこそ粗末だが、面長で気品のある顔立ちであった。

ゴータマは気づかれないように、ゆっくりと近づき、彼女が歌い終るのを待った。

「よい歌を間かせてもらって、ありがとう。」

彼女は一瞬おどろいた風だったが、はずかしそうにうつ向きながら
「搾りたての牛乳です。よかったら一口いかがですか・…」といった。
顔を赤らめながら、ゴータマの鉢にそそいでくれた。

「よかったら名をきかせて下さい。」

「はい、チュダリヤ・チュダータと申します。」

ゴータマは、チュダータに礼をいうと、五人の修行者達のところに行き、彼女からもらった牛乳を口にした。

これを見ていたコースタニヤが言った。
「ゴータマさま、あなたは修行をやめたのですか、修行者は生臭いものを口にしてはいけないはずです。」

ゴータマは五人の顔を眺め、
「このまま肉体行を続けていては、悟らないうちに肉体が滅んでしまう。
私は骨と皮になったこの肉体を作り直そうと決心したのだ。」
ときっぱり言った。

五人は何やら相談していたが、代表格のコースタニヤが言い放った。
「ゴータマ、あなたとは今日かぎり別れよう。
今までは弟子としてあなたをお守りしてきたが、もう王子でも師でもない。
あなたの自由にしなさい。」

彼らはゴータマから離れると、ゴータマに一顧もせず、ネランジャラ河の岸辺沿いに北に下って行った。

心の格闘


修行はもともと一人である。
悟りも自分が悟るので、友ではない。
ウルヴェラの森に帰って、ビパラの大木を見つけると、悟るまでは、決してここから動くまいと思うのだった。

東の方に向って正座し、チュダータの歌っていた民謡を思い出しながら、静かに瞑想するのであった。
瞑想中のゴータマは、昨日までのゴータマではもはやなかった。
一切の執着から離れた自分にかえっていた。
地上の想念から解放され、大自然の心に触れていたのであった。

ふと瞑想中に心がゆれ動いた。
すると耳元に女の声がきこえてきた。

「シッタルターさま、私でございます。」

思わず、ゴータマは眼を見開いた。

焚火の明りをすかしてみると、暗闇のなかに、ヤショダラの姿があるではないか。
ヤショダラのいる左の方にも人が立っている。
第二夫人のゴーパであった。

さらによく見ると、かつて言葉を交わした踊り子達の姿もあるではないか。
ゴータマは、じっと前方をみつめたまま、立とうとはしなかった。

そのうちに、ヤショダラの体が動いた。
男を求める女のあやしい姿がそこに映っている。
体をくねらせ、春を売ろうとする女に変っていた。

(悪魔だ)

そう思った瞬間に、女達の姿は消え、ゴータマの体は梵天の光りに覆われていた。

悪魔とは、人間の体に巣をつくる回虫のようなものである。
悪魔に魅入られると、人は正常心を失ない、やたらと闘争心がつのってくる。
そして、自分に敵対するものは情け容赦もなく、これを倒さずには済まなくなってくる。

血をみて快感し、人の不幸に冷然としていられる。

人の不幸や悲しみを喜ぶ者はない。
だが、自分と競争相手にあるとか、頭を四六時中押さえつけている人が、たまたま何かがあると、
(ざまあみろ)
という心を持たない人は少ないであろう。

悪魔はそうした、人の不幸を喜ぶ人の心を支配するのである。
人の不幸を喜ぶ程度が強くなるにしたがって、身体が重くなり、環境が不調和になる。

人間社会が混乱し、人の心が荒んでくると悪魔となってあの世へ帰った悪魔達が、現象世界の人々の心によって引き寄せられ、一層悪事を働くようになるのである。

ゴータマは、暗闇の現象を見て、自分の心の隅に、まだそのような想念の残骸があったことに気づき、そうした悪魔の誘惑に負けてはならぬと心を引き締めるのであった。

光明への道


肉体には肉体の役割がある。
その役割をなおざりにしてまで、なお悟りがあるとするのは明らかに邪道であり、観念の遊戯にすぎない。
悟りという心の問題は、健康な肉体と健全な心にある。
病弱で意識が不明瞭な者にどうして、神仏の心を自覚させることが出来よう。

大自然の計らいを見よ。

大陽は常に健康ではないか。
わめくことも、怒ることもない。
心をより広く、大きく開くためには、まず健全な肉体が必要であり、欠くことが出来ない。
悟りの大きな前提は精神と肉体の調和にある。

食べるものも食べず、摂るものも摂らず、肉体をどんなに苦しめてみても、心は安らかにならない。
肉体を苦しめる苦行によって悟ることが出来るのなら、過去に苦行をした人たちの中から悟った人が出ていてもよいわけであるが、誰も出ていない。

「生まれて来なければ、このような苦しみを受けずにすむものを、」と考えるが、
生れてきた以上は人間には何らかの目的と便命があるはずである。

その目的とはいったい何か。
使命とは何か、いかなる者も、いつかは年をとり、病気をし死んでゆく。

何人も死から逃れることはできない。
死ぬ時は地位も名誉も、財産も、全てこの地に置いて行かなければならない。
それは皆分かっているのに、それでも欲望の火は消えぬ。

五官を通して知る現象世界は無常である。

無常と知りながらも、欲望をつのらせて無常なるものに執着している。
所詮、人生は苦しみの連続なのか、苦しみのない人生があるとすれば、それは現実との妥協か、逃避か、自己満足ではないのか。

苦しみのくり返しは、人間にとって最大の不幸である。
少なくとも、こうして人間と生まれたからには、苦しみをいだいて死を迎えることだけは避けたい。
万人が万人、その望むところは、死を迎えるまでに、その悩みから解放されろことであろう。

幸せこそ解脱である。

その解脱の道とは何であるのか。
万人に共通する解放への道はどんな道であろうか。

苦しみの原因は心が間題なのだ。
思うこと考えることの心の作用が、諸々の苦しみ悩みを生み出している。

多くの場含、肉体の眼を通して得た自らの体験と知識は、我欲を土台にした偏見になっている。
そのために、人間社会は諸々の予盾と撞着をつくり、自然が教える中道の心から離れている。

勝ち負けの輪廻は、その渦中からぬけ出さないかぎり永遠に続く。
苦しみの輪廻は、その苦しみの中に想いが留まる限り、果てしなく続いてゆく。

中道にそった調和を志さない間は、真の幸せをつかむことはできない。
己れという我の立場に固執していては、正しさを求めることができない。

正しさの尺度は、男女、老若、地位、名誉等の別の立場を捨て去って、一個の人間として、大自然の中の己れとして、そしてその心の眼で、ものを見、相手を見、現実を眺めることである。

調和の基本は、まず何はさておいて、見ることの正しさにある。

現れた現象の奥には、必ずその現象を映し出す原因があるはずである。
自分に直接関係のある問題が派生した場合は、まず自分自身の心の姿を見ることが大事だ。

肉体の眼を通して見る外界の動きを正しく見るためには、その眼の奥にある心眼がきれいに磨かれていないといけない。

各人の心は鏡である。
その想念という鏡を絶えず掃除しておくことだ。

掃除するということは反省するということである。
反省は光明の世界に住するかけ橋である。

ねたみ、怒り、そしり、そうして諸々の執着から離れるには、反省をおいて他にない。

反省を重ねることによって心と肉体の調和が生れ、進んでは己れの心と大宇宙の心との合一がはかられる。

反省をせずして心を空にすると、魔や憑依霊に支配される。

人間生活にとって祈りのない生活は考えられない。
正しい調和の生活に向って努めている時の願いごと、祈りは、その人にふさわしいものである限り必ず叶えられる。

しかし我慾を満たす事だけに祈ってはならない。

人間の生活は、大自然が調和されているように、助け合い、補い合い、笑いのある明るい生活でなければならない。

それにはまず自分自身の調和をつくってゆくことである。
長所を伸ばし、短所を修正してゆくのだ。

道に精進するとは、親子、夫婦、兄弟、友人、隣人の間に調和をつくることである。

親子、夫婦が争っていて信仰とはナンセンスである。
そんなものは信仰ではない。

人間は大自然と人との関係を通して、初めて大きな自覚に到達することが出来る。
自分以外の存在は、自己を認識するための材料であり、魂の向上に不可欠なものである。
親子、夫婦、友人、隣人等は、自己の魂を正しく磨いてゆくために、天が人間に与えた慈悲である。

言葉は言魂であり生きた波動である。
謙虚な言葉、慈しみの言葉、やさしい言葉、勇気ある言葉、思いやりの言葉等、正しく言葉を使うことの重要性は、人間が社会生活を営む限り、絶対に欠くことのできない要件の一つである。

悟りへの重要な過程は、心の内面に対する反省であり、ものの見方、考え方、捉え方、そしてそれに基づく行動が、果たして正しいものであるかどうかを、内省することがキメ手になるのである。
反省しなければならなかったことは、二度と再び、同じことを繰り返さない様にすればよいのである。

反省して悪いと自認したとしても、その事実を消すことはできない。
要は改めればよいのである。

過去のことに執着を持つと、これからの行動が束縛され、本来の自由性がそこなわれる。
悪かったことを悪かったと認めても、それに囚われると暗い想念を創り出してしまう。

この点も中道の心が大事である。

過去の経験は、魂の修行の一過程である。
反省の功徳は、反省した後の実践にかかっている。
その実践の功徳は心身の調和という姿で顕われてくる。



夢幻の世界


悟りの正しいルールを発見することは、非常に難しいものである。
ウパニシャド・ヴェダーの中から、これを見出すことはできない。

ゴータマは三歳の時から、ウパニシャドやヴェダーを教えられた。
教えられることは知的に体系づけられていたが、教える学者達の生活は乱れていた。
ヴァフラマンやインドラーの神に祭壇をつくって祈りさえすれば、心はどうしなくても救われると思っている。

また一般の信者が直接神に祈っても救われない、必ずパラモンの司祭という代理を立てて祈らないと、神さまは救って下さらないという。

そうして心の奥底に潜む心の原因については、全く手を染めようとはしなかった。

アポロキテー・シュパラー(観自在)に至るには、心と行いという実践しか残されていない。
神仏の光を希求するならば、その前にまず心の曇りを払いのけることであった。

求道-解脱は疑問から出発する。

疑問を持たない求道などあり得ない。
疑問は探求心を育て、探究心はやがて解答を得て理解されてくる。

普通は中道という尺度を知らないために、求道の方向を見誤ってしまう場合が非常に多い。

しかし八正道という大自然の尺度が発見された以上は、疑問は安易に理解されてゆく。

間題は、その中道の尺度を使って、自分自身がどこまで厳格に、公平に、自分の心を見つめる事が出来るかである。

自分の心で、自分の心の影をどこまで洗い出せるかにかかっている。

心に影が潜む間は、生老病死の執着は断てないのだ。
解脱とは執着から離れた心なのである。

マラーとの対決


五日間のゴータマの反省は、自己追究への反省であった。
一点の甘えさえ許さなかった。
それだけに、反省前と後では心の安らぎが違っていた。
安らぎとともに不動の心が自然と備ってくるのであった。

ゴータマは反省の冥想を解こうとした。

いつの間にか自分の前に、ヴァフラマンが立っていた。
こちらをじっと見ている。

「カピラの王子、ゴータマよ、お前は城に帰りなさい。
お前がいかに慈悲心を持っても悟っても、我欲の塊りの人々を救うことは出来ないだろう。

城には王も、お前の妻も、多くの部下達も待っているではないか。
修行を捨てれば、全地球の王として優雅な生活が出来よう。
お前はそうした生活をするよう神から与えられている。

忘れたか、ゴータマ、生命は輪廻しているなら今の原因は来世の結果となり、王としてこの世を去れば、来世も王としてその地位が約束されよう。
今のような苦行をしておれば、来世も苦しい修行が待っている。
お前の生命はこの世限りだ。
お前が修行を休めば、私は必ず協力して全地球の王にしてあげよう。」

言っている事は筋が立っていたが、解せないのは異様な臭いだ。

ゴータマは、相手の正体を見破った。

「お前は何者だ、本性を現わしなさい-」

「魔王とその弟子たちよ。
私の言う事を素直に聞きなさい。

お前達も神の子だ。
神の子であるのに、生前のお前達は、怒り、そしり、うらみの念が強く、人を愛したことも、愛されたこともない。

お前違も自分の子供を育てたことがあろう。
子を憎む親はいない。
神の愛、慈悲もそれと同じだ。

お前は今では魔王となり、鬼のように心は荒んでしまったが、それでも神はお前達を見離すようなことはしない。
今からでも遅くはない。
自分に嘘のつけぬ善なる心に勇気を持って、仏性を思い出すのだ。

私の与えている光は天国の光だ。
神の慈悲から送られてくる安らぎの光だ。
さあ、執着を捨てなさい。
過ちをわぴ、仏性を現わしなさい。」

闇は光に抗うことはできない。
魔王の心にも光が入っていった。
彼は両膝を地につけ、ゴータマに向って両手を合わせて合掌した。

魔王といえども、慈悲の光に合うと、内在する神性仏性が顕われてくる。

(降魔の釈尊とはこの事をいうのである)

偉大なる悟り


七日目がやってきた。
再び瞼を閉じ、瞑想に入ろうとして、ふと気がつくと坐している己の体が次第に大きくなっているのであった。

ゴータマを雨露から守っていたビバラの大木を抜けて、ガヤダナが眼下に見えてくる。

ゴータマの意識は刻々と拡大していった。

地上が次第に遠のいてゆく。
意識の拡大はテンポを早めた。
暁の明星が足下に見えた。
もう一人のゴータマは小さな粒のように、はるか下方に坐していた。
ゴータマは宇宙大に広がり、宇宙が自分の意識の中に入って行くのだった。

遂に、悟りを開いた。
三十六年間に作り出した不調和な心、想念の曇りが、この瞬間において光明と化したのであった。
大宇宙の意識と同体となったのであった。

森羅万象の生い立ち、宇宙と人間、神の存在、人間の在り方、魂の転生輪廻等が一瞬のうちに明らかになるのであった。

「この大宇宙は神によってつくられた。
大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけがそこにあった。
神は、その意識の中で、意志をもたれた。

大宇宙の創造は、神の意志によってはじまった。
意識の働く字宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。
意識界の宇宙はその意志をもって物質界の宇宙を動かし、そうしてこの二つの世界は、光と影という相関関係を通して、永遠の調和を目的とすることになった。

人間は天地創造と共に、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産ぶ声をあげた。
人間以外の動物、植物、鉱物も、大地に姿を現わした。

人類は、神の意志にもとづいて、調和という仏国土をつくりはじめた。
人々の年令は五百歳、千歳の長命を保った。
子孫が子孫を生み、人々の転生輪廻がはじまった。

人々は次元の異なる意識界と自由に交流ができた。
文明は高度に発達した。
人間は自由に空を駈けめぐり、地下に大都市をつくった。

しかしやがてその文明も終焉を迎える時がやってきた。
人々の間に自我が生れ、国境がつくられ争いがはじまったからである。
人々の不調和、暗い想念の曇りは偉大な神の光をさえぎった。
その結果、大地は怒り、黒雲が天を蔽った。
至るところで火山が爆発し、陸は海に、海は陸になった。

天変地異は自然現象ではない。
人類の心と行為がつくり出したものであった。

神の意志である調和という仏国土を建設するために人類は存在し、人々の魂はそうした建設を通して、永遠の進化をめざすものであった。

人間は小宇宙である。
大宇宙に展開する星の数は、人間の肉体を形作っている細胞数とほぼ同数である。

人間は肉体のほかに心(意識、あるいは魂)を持っている。
その心は、肉体という衣を通して、物質界、現象界に調和をもたらすことを目的とする反面、大宇宙の心に同通し、それぞれの役割に応じた使命を担っている生き通しの意識である。

肉体は仮りの宿にすぎない。
物質と非物質の世界は、交互に循環することによって調和という運動形態を永遠に持続するためにあり、このため、肉体という物質は時が経てば非物質的な世界に戻らなければならない。

人間の意識、心、魂は、物質、非物質に左右されず、永遠に、その姿を変えることがない。

生き通しである。

このように人間の心は、神の心に通じながら、物質界という現象界と、非物質の霊界とを循環し、個の魂、意識をもって、永遠に生き続けてゆくのである。

神の子としての人間が何故悪をつくり出したか。
どうして不幸になるか。

それは肉体の自分が、自分であると思い、肉体を中心とした自我の考え方が、自由自在な心を、肉体の中に閉じこめて束縛してしまったからにほかならない。

全能の神が人間の不幸を予測できない筈はない、と誰もが考えるであろう。
どうして事前に不幸を防げないかと。

それは丁度、人間の親子の関係と同じである。
親の心にそむく子があると同じように、親が子を自由にできないと同じように、子は子としての主体性をもって行動する。

人間には自由が与えられている。
その与えられた自由の中で、人間はどうするかを自分で選択しなければならないのである。

神は調和という「中道」の中で厳然と生きている。
人間が中道に反した行為をすれば、その分量だけ、反作用をともなうように法則がつくられている。

人間は肉体を持って魂を修行する。
肉体には五官が与えられている。
五宮が働かなくなれば、肉体は死ななければならない。

さりとて五官に心を奪われると、欲望がつのり煩悩が起ってくる。

さまざまの不幸は、このような肉体を中心とした心の働き(業)によって自分がつくるのである。
地位、名誉、金銭、情欲、その他さまざまの欲望が、人間の神性仏性を侵してゆく。
こうして人は、あの世とこの世を循環しながら業を修正して行く者もあるが、大部分の魂は、新たな業をつくってしまう。

このために人類は、地上に仏国土を建設する前に、まず自分の業を修正しなければならなくなった。
神性仏性の本当の心を、暗い心で覆ってしまった。

動物・植物・鉱物は、人間の魂の修行の場であるこの地球の環境を維持するためのものであって、人間は万物の霊長としてそれらを調和させてゆく任を、神から与えられている。

動物・植物は、それぞれの個性にしたがって進化を続けるが、動物・植物が人間になることもできなければ、人間が動物・植物になることもできない。

人間が本来の神性を回復するためには、神の心に触れなければならない。
神性の我に帰るとは、苦界の自分から離れることである。
生老病死の執着から脱皮することである。

神の心は中道という調和の中にあり、その流れに自分の魂がふれるように努力しなければならない。

一日には昼と夜がある。

どんなに人類が増えても空気と水は増えたり、滅ったりしない。
一定である。

太陽の光と熱も一定で不変である。

人間の男女の比は一定である。

戦争・災害など、人々の心が我欲に傾かない限り、男女の比は均等に保たれることになっている。

肉体には肉体の法則があり、夜も眠らずに仕事を続ければ、肉体的に故障が現われ精神の平衡を失ってくる。

すべての生命は、中道から離れては生きてゆけないようにできている。
中道の心は毎日の生活を反省し、反省したことを実践することから得られる。

実践には勇気がいる。
努力がいる。
智慧を働かせば、心の修正は早くなる。

反省の尺度は八正道である。
「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正進」「正念」「正定」である。

人の心は、この八正道を基準として、毎日の生活の中で正しく修正されて行く。

人間の魂は生き通しである。
不死である。

肉体は時が経てば捨ててあの世へ帰らなければならない。
中道の心にふれると、こうした理が明らかになり、神の心である永遠の安らぎを保つことができよう。

心が拡大すると、太陽をはじめ星々が、すべて自分の心の中で回転し、その中で呼吸する一切の生物は、わが肉体の一部であることに気づく。

人は宇宙大の意識を持っている。
肉体に心が執着すると宇宙大の自己を見失なってしまう。
もだえ、迷い、地獄に身を焼く人間に対しても、神は、辛棒強く、救いの手を差し伸べている。
太陽を、水を、空気を、大地を、食べ物を与えている。

わが子の行く末を案じない親がないのと同じように、神は人間に無限の慈悲を与えている。

人間は、その慈悲に応えなければならない。
応える事によって、人間は神性の自分を自覚するのだ。
神は平等である。
太陽は万生万物を平等に照らしている。

階級が生れ、貧富が生じ、競争意識に心が翻弄されることは、神の心に反する。
能力の別、カの相違、得手不得手はすべて努力の所産である。

人類の歴史は、己れを知ることよりも、我欲を満たすための歴史であった。
闘争と破壊はそのためにくり返された。

人々は苦しみから逃れようと、さまざまの信仰をもっている。
肉体を痛め苦行を積めば救われる。
拝めば救われ、祈れば功徳があると信じているが、大きな間違いである。

苦行は、心を肉体に束縛執着させ、祈ればよいとする他力は、心をきれいに安らかにすることを、なおざりにするので神性を失なわしめる。

いづれも片寄った信仰である。

中道は、神に通じたウソのつけない己れの心を信し、八正道という生活行為をしてゆくところにある。
真の安心は、自己満足や逃避であってはならない。
自分の生死を冷静に客観視することができる自分が確立できてこそ、真の安心は得られる。

人間は神の子である。

神は天地を創造された。

人間もまた己れの天地を調和させ、自己の置かれた環境を創造して行くものである。

神から与えられた肉体を痛めてもいけない。
あなたまかせの他力に自己満足していてもいけない。

世はまさに末法である。
正法という中道の神理を矢い、人類は迷いの中に沈潜している。

この迷いから人々を救うには、正法という法灯を点じ、大自然の慈悲に、目覚めさせなければならない。

法は慈悲と愛をよぴ覚ます力である。

神は無限の慈悲とその力をもって、正法を信ずる者の行く手に、光明の道を開いてくれる。

ゴータマは、はじめて人間の価値を悟った。

いうまでもなく人間は神の子であり、神の心の下に、人間と大自然は一体となって生きている。
自然を離れて人間はなく、人間はその自然を、神の経倫にしたがって調和してゆくものであることを悟ったのであった。

物を、単に、物として見ている間は、心の安らぎを求めることはできない。
物を単に物として見ず、物を物として生かしているその奥にある実在を知ることである。

色心不二という認識は、人間の心が物から離れ、物を客観的に見るようになった時に、初めて言い得るのであるった。

宇宙即我の境地に浸っている瞑想の極致には、時間の経過は分らなくなる。
時は、今という瞬間を数えるのみで、大自然の輪廻は、一時の休みもなく過ぎてゆく。


瞑想から覚められたお釈迦さまの心の中に浮んできたのは、
「いったい、この今の自分の悟りを、人に話しても分かってくれるだろうか。」
ということであった。

永遠の生命とは、生老病死のない世界であった。
肉体の自分の中にもう一人の自分がいる。
生れることも死ぬことも、病むことも老いることもない自分がある。

現在の肉体は両親の縁によって得たが、その肉体は人生航路の乗り舟にしかすぎない。
一切の苦しみは、自らの心と行いがつくり出したもの、即ち、自然の掟である中道という神の心に逆らったがために起る苦しみなのだ。

正しく見る、正しく思う、正しく語るという、その想念行為を自ら放棄するところに苦しみは起る。

中道の心は、もっとも人間らしく、もっとも自然な生活のしかたである筈である。


ピバラの根に手をあてて、ゆっくりと立ち上られたお釈迦さまは、ネランジャラの河辺におりてゆかれた。
ゆっくりと流れる水の流れは、昨日も一昨日も変らない。

水は無言で流れてゆく。
両手で水をすくって顔を洗われた。

お釈迦さまの教えは、決して難しいものではなかったと思う。
なぜなら、あの当時の奴隷階層の人違も沢山出家している。
全くの無字文盲の人達が沢山いた。
むずかしい文字で書かれた一部の人だけしか分からないようなものであったら、神の救いは平等でない、ということになる。

お釈迦さまの禅定瞑想は二十一日間続けられた。
いつでも金剛定に入れる不動の心があった。



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